昭和50年03月06日 稲森心1年祭
本当に縁というものは不思議なものです。赤の言わば他人同士が、血の継がったもの同士よりも、濃い付き合いになっていった。本当にその係わり合いと言うか、縁の不可思議さというか、本当に今日の稲森さんの一年の、式年のお祭りに合わせて、高芝の淑子さん達にとってお婆ちゃんに当たる方の帰幽日が、そのあいなかをとって、今日のお祭りさせて頂いたわけですけれども。
本当に縁もゆかりもない人達が、その、御霊のお祭りに合わせて貰うとか又は言うならば、赤の他人の人のお遺骨までも引き受けて、そして後の祭りまでも、このようにしてさせて頂くと言った様な縁ということは、本当に不思議な事だと思います。だからこの縁がただ本当に異なものであったということではなくて、その縁がいよいよその味なものに育っていく、また育てて行くと云う事が、信心だと思うんですけれどね。
この何と言うか、果物でも小さい神様の方へ、こんな大きな惟は何んと言うでしようか、ザボンの様な大きなのがお供えになっておるですね。同じみかんでも、こんな小さい金柑くらいから、普通のみかん、ネーブルと言った様にいろいろな種類があるけれども、その柑橘類でも段々大きくなれば大きくなるほど、大味になっていくもんです。何でもそうです。段々こう大きくなると、味が薄くなったりね、いわゆるおおざっぱになりがちなんです。
信心は、そのところがおおざっぱにならずに、例えて言うと誰でも自分の親身のもの、親であり子でありと言う様な、また兄弟であるというと、そこに親身なものが交流する。その親身な思いというものが、赤の他人の誰彼にも通うような、あり方になっていこうというのが、信心です。
例えて、まあ、言うなら、祈りの言葉の中にもあるように、世界天下の事を祈る、世界真の平和を祈る、または世界総氏子の身の上安全を願う。口でいうことは見やすい、たやすい事ですけれども、それが実感として、自分の事として、例えば隣人を自分の事の様に、隣人の人事が思えれる様になると云うところに、私は心の成熟というか、成長があるとこう思うです。
自分の事と下り坂を急がない者はない、けれどもそれが人の事になると、なかなかそう云う訳にはいけない。信心とは結局、人の事が自分の事として祈れる様な心の状態がいよいよ育っていくということ。ということは、それだけ大きくなって行く事。ただ大きな祈りを持つということはです、今言うように、だから中身がない実感がなかったら、祈りが例えばどんなに大きくても、それは希薄なものである、薄いものである。
本当にま例えて言うならば、世界真の平和、世界総氏子の身の上安全、本当に世界が平和に成って行く事を、自分の家庭が平和に成って行く事の様な、実感をもって祈れれるようになる時に、世界が平和になるのでしょうし。自分の事又はそれが、自分に係わり合いのある人達の上にも、自分の事と同じような思いで、願われる祈れれる心の状態こそ、その人は救われておるんだ、助かっておるんだと云う事になる。
今日この村内の方が朝、ご祈念に参って来てから、最近家が綺麗になった。そしたら隣のおばさんが来てから、もうずうっとあんた方は今日は何の日、悪か日にあんた瓦をあげていたら、ろくな事はなかですよとか何とかと言いなさる。それだけならよいけども、近所にもそのいろいろとこう言うて回るのです。家の方に家が建つと、隣の者は腹を立てると言った様な心が人間の心の中にある訳なんです。いわゆる羨望の心うらやむ心。
もう本当に恥ずかしい話、浅ましい事だけれども、そういう心が人間の心の中にある。人が立派になる。本当にそれを良かったねえと喜んでやれる心が神心。信心はそういう心を育てていくと云う事が、私は信心だと思うのです。
これは人間だから是位の事は当たり前、ということろには、それこそいわゆる、人間であって人間がね、神の氏子としての自覚に立って、本当にわが心に神が御座る、われながら自分で自分の心が拝めれるような状態。
例えば隈井さんが、今日の霊様のお祭りを真心込めてなさる。本当に縁とは不思議なもんだなあと、赤の他人の誰かれの事をこの様にして、出来れるという時に、恐らくは自分で自分の心が拝みたい様な心が生まれて来るんじゃないかと、まあ想像するです。ただそれが、ただ見栄だ、形式だと云う事であったら、言うならばお祭りの値打ちはない。けれどもなんとはなしに、御霊の助かりを一年間、願いに願い続けて、そして一年という今日の節の式年に思いを込めて。
本当に何と言うですかねえ、お互い肉体を持っておる時には分からない。思い違いをする考え違いをする、疑ってはならない事を疑い合ったり、または色眼鏡では見てはならないとこを色眼鏡で見合ったりして、分からない。ところが御霊の世界心の世界というものは、その実相の世界というものがはっきり見えて来るのです。
そこを教祖は信心するものは肉眼を置いて心眼を開け、とこう仰る。心の眼を開かせて貰う所に、腹の立つような問題であった事が、お礼を申し上げると言った様な心にも変って来る様に。御霊の魂の世界から、例えば今日のお祭りの世界、お祭りを受けておられる、それを見た時に初めて人の真、人の真心というものを、十分に感じ取らせて頂く事が出来るだろう。私その事を思いよったら、えらぁいなんか今日は感動するんです。
そしてご心眼に、昨日あの、テレビでね、なんとかの二人の男のなんとかという、あの辰巳竜太郎とね、それから島田省吾の友情を、あの語り合っておるという何かがあってましたね、夕べ。あの場面を頂くんです。本当にまっ男と男の心の通いというか、友情と言うか、それがあのこの様な形に現れて来るということは、もう本当になんとも言えん、人間の世界にもこういう麗しい世界があるかと思うくらいな、まあ、感じであります。
昨夜あの、久留米の佐田さんのところの、奥さんのお父さんの帰幽日でした、昨日が。言うならば、日田から久留米に縁に付いて来ておる。日田の方の、里の方のお父さんの帰幽日です。言うならば仏教で言うお立ち日なんです。もう言うならば仏様御霊様は、日田の方でちゃんとお祭りがしてあるから、嫁いって来て佐田の家でまでそれをする事は、まあいらんと言えばいらんようなものなんだけれども、まあ子供として、今日はお父さんの帰幽日だからというので、ご夫婦、子供達も揃うて、夕べのご祈念に合わせて、御霊様にご挨拶をしてくれということであった。
これは皆さんの所でも同しと思うけれども、なあ今日お爺ちゃんの立ち日だから、今日はお婆さんの立ち日だからと言うて、まあお茶の一つもわかさせて貰うたり、甘い物が好きであったら、ぼた餅の一つも作ったりして仏様にお供えをして、今日は婆ちゃんのお立ち日だから、今日は朝から皆で精進させて貰おう、夜は仏様御霊様の前に座って、一同でお経の一つも上げさせて貰うて、御霊様を大事にする。それだけでも有り難い。
それだけでも有り難い。そういうふうに例えば、先祖を本当に心から一家中で大事にすると言った様な家は、必ず繁盛するです。これは信心があるなしに関わらず、先祖を大事にする、親を大事にする。いや、せずにはおられないというものがです、確かに何か天地の機感に叶うものがあるに違いがない。そういうところ見てご覧なさい、先祖祭りなんかを本当に丁寧にする所、もうお仏壇でも綺麗に祭って、何時も生き生きとした花がお供えしてあったり、もうお墓には線香あげて、朝晩お勤めでもさせて貰うと云った様な家庭は、必ず円満で矢張り家が繁盛するです。
ですからそれだけでも、言うならば、まあ言うならば有り難いのです。しかも自分の里のお父さんの、それも式年と言う訳でもない、ただお立ち日だという日を、わざわざ色々なお供え物とり整えて、そしてご主人と子供達、いわゆる孫たちと一緒に、そのお祭りを拝ませて貰うというのですから有り難い。
私はその事を、今神様にお願いさせて貰いよりましたらね、あのちょうどあの、精霊流しの時に、あのう船を久留米にあたりでは、今でもでしょう、久留米はあれが流行ります。あの初盆なんかの時には、船を作って精霊さん流しっというのがある。
あの精霊さん流しのような、あの船がね、わらで作ってるんです、大きな。そしてそれには、お野菜とか何とかがいっぱいこう、特に私の印象的に、印象に残ったのはあの、枝豆ね。枝豆をいっぱいこう積んである。それを流しておる。ところが木の船ならばずっとこう流れていくけども、わらですからね、すぐぶくぶくぶくって沈んでしまう訳なんです。そういう情景を頂いた。
ほう素晴らしい事だなあ、信心とはもうこれでよいということはない。いや真心というものには、もうきりがないものだなと私はそれから感じた。今日は日田の里のお爺ちゃんのお立ち日だから、お爺ちゃんがお酒が好きだったから、お神酒だけでもお供えする、それだけでも言うならば御霊様が喜ばれるだろう。
甘いもんが好きだったから、ぼた餅の一つでも作った。さあ仏様にお供えをした、それだけでも喜ばれるだろう。そういう心の状態の、人が家庭の中にそういう、情操というものが育っていくならば、そういう家庭は必ず円満であり、家は繁盛する。
けれどもね、佐田さん所の、夕べのそれはどういうことかというと、わらということはあれは天地に対する還元の時のお知らせです、例えば稲を作るでしょ、そすと稲があの、言うならお米が取れる、そのお米まで還せとは天地は仰らん神様は。せめてわらだけ位は還していけという、これが天地に対する還元。さあ儲かった分全部、持ってこいというのじゃない。
ほんのその一部を還元するんです。それもただ条件があるのではない、それこそそうしなければおられない、真心というか親切と言うか、親身なものがそうなされる時に、それはそのまま天地に対する還元になる。あのわらの船にそれが川にこう沈んで行くと云う事は、もう天地に還元しておる様子を見せて下さったもんだと思うです。
まっそう云う事例から言うて、そういうことから思うてみてです、今日の場合、今日お祭りなんかは言うならば、親でもなからなければ子でもない、言うなら赤の他人である。ただ商売の上ので、主人と言い社長と言うておった人の、そのお遺骨までもここに、お祭りをさせて貰うて、しかも一年経ったら、その式年是からも恐らくは、又式年にこの様なお祭りがある事であろう。
株式会社稲心のお店が発展する、繁盛すればするほど、このお祭りは盛大になっていくだろう。まっ何という素晴らしい、心の継ながりというものが出来ておっただろうかと、私は思わずにおられないね、このお祭りがいよいよ、盛大になって行くということは、そのまま株式会社稲心の、繁盛を、意味する様なものである。
どうぞ一つ自分の事、親身の事なら誰でも、それは出来るのですけれども、そうではない言うならば、赤の他人の誰彼の事をこうして願えれる、言うならそれだけ自分の心というものが大きくなった、自分の事だけにきゅうきゅうとしておるでなくて、それを他人の事までもこうやって祈れる。
拝めれる言うならば沢山な金を使ってでも、こういうことが出きるということは、それだけ大きくなった印です。ただその大きくなったのが、例えば形式であったら、これはますます大味になっていくだろう、ザボンの様な味に成って行くだろう。
そこの大きな味わい、その大味になっていくのではなくてです、もうそれこそ自分の事の様に、親身のものとして、出来て行く工夫が私は信心だと思うです。漠然としたものにならずに、それは親身なものとして、感じられる様になって来る。
そういう世界が、私は本当の意味での還元の世界に継ながるとも思うし、同時に心が豊かに大きくなっていく、一つの稽古にでも、有り難い事になると、思うんです。稲心それはご理解に頂いたように。
それこそ実れば実るほど、頭を屈めていくというのが稲の姿。もうしいらほど、こうやって頭がツンと上げとる。実が実るほど、頭が下がる。ということは、いよいよ自分がわかるということなんです。いよいよ自分が分る、例えばなら今日の御霊様でも、なら隈井さんなら隈井さんの場合であってもです、生前は通わなかった、生前は通じなかった場合には、主人であっても、言わば従業員であっても、心と心が交流していない様なところがあった。
思い違い考え違いをしておるところがあった。それが実相の世界。本当に魂の世界、心の世界、を持ってこうやって結ばれる時に、はあ、本当にすまなかったねえという、お詫びもできる。同時に、また、お礼が足りなかったねえというところも分かる。お詫びをし合い、お礼をしおうという世界がいよいよ尊い、有り難い信心の世界に、継ながって行く事であります。
このお祭りが本当にこれが五年十年と、式年祭をさして貰う時には、沢山な例えばんなら、稲森商店の従業員が集まってね、もう稲森の言うなら何と言うか、基礎というか、ね、一番大本を取って下さった方の、今日は式年だというので、もう全店の方達が、それをお祭りに併せて頂くような、おかげに発展して行くということは、そのまま稲森商店の発展を意味事でもあります。
本当このお祭りをいよいよ大きなものにしていく、しかも大味なものでなくて、どこまでも親身の言うなら血が通う、通いおうたもの、心が交流するようなお祭りに、進展して行く事を、私は願いとしていかなきゃならないと思いますね。